モノは通常、ある国の人々の生活様式や文化、歴史と不可分のはずはないのである。しかるに、アメリカはモノを特定の文化や歴史から切り離した、というよりも歴史や伝統を全くもたないアメリカ人にとって、モノは歴史を引きずるものではない。モノはただ「消費者」という一般的カテゴリーに向けれたものなのだ。歴史や文化から切り離されて初めて「消費者」という普遍カテゴリーが成立する。
例えば日本とアメリカでは商品に対する感覚が違うにもかかわらず、経済活動を評価する尺度として「消費者」の概念は日本もアメリカも同じなのである。つまり、アメリカ的価値観、制度、様式がこの「モノのデモクラシー」という「普遍性」と結びついている。
そしてアメリカがこのような理念の普遍性を唱えることによって、母国文化の個別性を払拭した。
結果、大衆消費者(移民)たちは、まず「アメリカ市民」になろうとした。アメリカ市民であるとは、それらしくみえることである。郊外住宅に住み、守るべき財産と家族をもつことであり、物事を民主的かつ合理的に考えることであった。商品と結びついたデザインや広告は、この「アメリカ市民」らしく見せるにはどうしたらいいかを指示したのである。(つまり「この商品を買えば、この銘柄のたばこを吸えば、この仕様の自動車を運転すればあなたは独りぼっちではありせんよ、消費者にいわば保証することである」)
そして表層の見せかけが大衆の脅迫観念になり、商品イメージがこの脅迫観念に対する精神安定剤になった。消費は一種のサイコ・セラピーの役割を果たすのである。
結局アメリカの過剰消費体質には、「移民の存在(もともと己の属する集団というものがない)」、そんな彼らががモノを通じてしか擬似コミュニュティが形成できないという要因が大きいのだと思う。
しかしいずれにしてもこのような人工国家(アメリカ)が、今他の国に対し自由な市場を要求し、そしてその国・地域に昔からある歴史や文化を解体し、例えば、マクドナルドが象徴しているように全世界に単純な「ただモノを買う存在=消費者」にしていくことは許し難い。
(参考:「この1冊でアメリカの歴史がわかる:猿谷要」「アメリカニズムの終焉:佐伯啓想」)
安冨啓之 |
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