『戦後史の正体』孫崎享著 第1章「終戦」から占領へ より抜粋、転載
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日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」こと、これが降伏文書の中身でした。
日本は1945年9月2日、降伏しました。「米国のいうことにはなんでもしたがいます」というのが条件です。それが1945年9月2日から1951年9月8日(日本時間9日)のサンフランシスコ講和条約までの日本の姿なのです。
事実、1945年9月2日、日本は降伏文書に署名した直後、降伏とはなにを意味するかというきびしい現実を思い知らされることになります。
1945年9月2日午前9時、降伏文書の署名式が始まり、9時20分、マッカーサー元帥は署名式の終了を告げました。当初日本政府は、できれば米軍を東京に入れたくない、横浜ですべての交渉をしたいと思っておりました。まだ占領の怖さを甘く見ていたのです。外務官僚の鈴木九萬が公使となり、米軍との折衝にあたっていました。
同じ9月2日の午後4時、参謀次長マーシャル少将が鈴木公使に自分のところに来るよう求めます。ここでマーシャル少将はおどろくべき命令を鈴木公使にのべたのです。
「実は明朝10時に3カ条の布告(=三布告)を交付する予定だ。文書を事前に渡すので、公表の手続きを至急とるように」
この三布告にはすごい内容が書かれてありました。
布告第一:日本全域の住民は、連合国最高司令官の軍事管理のもとにおく。行政、立法、司法のすべての機能は最高司令官の権力のもとに行使される。英語を公用語とする。
布告第二:米側に対する違反は米国の軍事裁判で処罰する。
布告第三:米国軍票を法定通貨とする。
お金は米軍が印刷した紙幣(軍票)、裁判権は米軍、公用語は英語ですから、ほとんど軍事植民地です。
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「日本を米軍の軍事管理のもとにおき、公用語を英語とする」
「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」
「通貨を米軍の軍票とする」
というのが最初の布告案でした。
この三布告は重光葵外務大臣の必死の折衝によって、翌朝、マッカーサーの権限で撤回することになりました。
行政、立法、司法を握られ、公用語を変えられ、通貨発行権まで渡すとなると、日本はもはや国家ではありません。
当時の内閣は相当なショックを受けたでしょう。すんでのところで撤回されましたが、交付されていれば日本の戦後社会はまったく違った道を歩むことになったに違いありません
太刀川省治
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